|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 東 : [ひがし] 【名詞】 1. east ・ 女 : [じょ] 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter ・ 女帝 : [じょてい] (n) empress ・ 帝 : [みかど] 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence
エイレーネー“アテナイア”(ギリシア語:、752年 - 803年8月9日)は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第5代皇帝(在位:797年 - 802年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の皇后で、第4代皇帝コンスタンティノス6世の生母。ローマ帝国史上初の女帝である。中世ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」の意である。渾名の“アテナイア”は「アテナイ人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。 ==生涯== ===前半生=== エイレーネーはアテナイ出身であったとされる〔ビザンツ皇妃列伝, 4 エイレーネー (七五二頃~八〇三年), 孤児から皇妃へ〕。生い立ちについての資料は残されていないが、『テオファネス年代記』では孤児であったとエイレーネー自身が告白したことが記録されている〔。 769年、16ないし17才のエイレーネーは、皇太子であったレオーン4世の后となるため、アテナイよりヒエレイア宮殿に入りコンスタンティノープルへ向かったとされる〔。 レオーン4世との結婚は聖ステファノス聖堂で行われた〔ビザンツ皇妃列伝, 4 エイレーネー (七五二頃~八〇三年), 偽りの誓いによる結婚〕。 この結婚に際し、アテナイ出身であった彼女は聖画像への崇敬を行っていたが、夫となるレオーン4世は聖像破壊運動を進めていたため、聖像崇敬を行わないよう誓うこととなった〔。 結婚の翌年である771年1月14日、コンスタンティノス6世を産んだ〔ビザンツ皇妃列伝, 4 エイレーネー (七五二頃~八〇三年), 病の夫〕。 775年にコンスタンティノス5世がブルガリア遠征中に死去し、夫のレオーン4世が皇帝を継承したことで、エイレーネーは皇后となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エイレーネー (東ローマ女帝)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|